もう2ヶ月も前の話になるが、職場の人に誘ってもらって、アキテーヌ博物館でやっていたジャック・ロンドンの特別展を見に行った。毎月第1日曜日は公共の博物館や美術館などが無料開放されるので、タダだし興味あったらどう?と言われたのだ。日本では常設展ならまだしも特別展まで無料になるのは珍しいと思うので、こういう文化は素直に良いなと感じる。
実のところ、私は恥ずかしながらジャック・ロンドンという人物もその著作も全く知らなかった。その誘ってくれた人にも、「いいですね!ところでジャック・ロンドンって何ですか?」(誰ですか?ですらない)と聞いたくらいだった。でもまあ、博物館には興味があったし、タダだし、別に断る理由もないのでついて行った。
ジャック・ロンドンとは20世紀初頭に活躍したアメリカの作家で、アラスカの野生動物を題材に取った小説や、海を舞台にした冒険小説で有名らしい。どうやら彼は自分の体験から着想を得て作品を書くことが多かったようで、若い頃にアラスカのゴールドラッシュに参戦して見聞きしたものごとが動物小説の土台となり、スナーク号という帆船で太平洋の島々を巡る旅をした体験が海洋冒険小説のもとになっている。今回の展覧会は、このスナーク号による南洋の旅について、彼と彼のクルーたちが撮った写真や収集した現地の品物を、旅の時系列に沿って紹介していくものだった。
サンフランシスコの貧しい家庭に生まれ、牡蠣泥棒として養殖場を荒らし回る少年時代を送ったジャックが、ゴールドラッシュで一攫千金を夢見てアラスカに行き、金鉱脈こそ見つけられなかったものの、その体験から着想した小説で一躍売れっ子になる。活発で聡明な妻も得て、自分の船スナーク号を建造し、意気揚々とサンフランシスコを旅立ったわけだ。が、この航海、準備がずさんというかなんというか、海に出てしまった後で舵を取るはずの船長(ジャックではない)が海図を読めないことが判明したり、船底から浸水したりと、よくそれで最初の目的地のハワイまでたどり着けたなというトラブルが目白押しだった。そのたびにジャックみずから奮闘してなんとか乗り切っていくのだが、まさに勇気ひとつで船出した無鉄砲な主人公が荒波を越えて成長していく冒険小説のようである。小さな帆船で太平洋を渡るのだから、もちろん綿密に計画を立てて万全の態勢で臨んでほしいところなのだが、結果的には本に書くエピソードとして美味しいものになったのに違いない。
トラブルばかりの旅もハワイで立て直し、彼らはさらに南へ向かう。それぞれに文化の異なるポリネシアの島々を回りながら、現地の人にレコードを聞かせて驚かせたり、サーフィンを教えてもらったりして、おおむね平和に進んでいったのだが、いよいよ西洋人との接触経験の少ない地域(たぶんメラネシアだったと思う)に来ると、外敵とみなされて襲われる危険が増し、ジャックが手足の皮膚が剥がれ落ちる奇病にかかったこともあって、スナーク号の旅は終わりを迎える。
島の暮らしを伝える素朴な手作りの日用品や、シャチの歯なんかでできた装身具、木彫りのティキの像などが並ぶ中で、ありとあらゆる形をした木の棍棒もたくさん展示されていた。フランス語では casse-tête (英語にするとヘッドブレイカー)と札がついていて、辞書で引くと「パズル、難問」という意味が先に来るのだが、ここでは文字通り物理的に頭をかち割る武器のことである。例の誘ってくれた人が、細かい彫刻の施された棍棒の前で、ポリネシアでは敵を倒した棍棒に美しい彫刻をする文化があるというフランス語の説明書きを訳し、だからこの棍棒は少なくとも1人の頭を割ったのだ、と嬉々として解説してくれたのがちょっと面白かった。*1
ジャック・ロンドンはどうやらフランスではかなり人気らしく、作品が何度も映像化やバンド・デシネ(フランス版の漫画)化されていて、2010年代に入っても未だに新しいバンド・デシネが出版されている。どうりで知っているのが当たり前みたいなノリで誘われたわけだ。
それならばひとつぐらい読んでみようと思い、「野生の呼び声」と並んで代表作とされている「白い牙」(White Fang)をKindleで読んでみた。
犬の血が1/4混ざっていながら野生の荒野で生まれたオオカミのホワイト・ファングが、インディアンの村の人間のもとで、自由と引き換えに安全を得る契約を結ぶ。たちの悪い白人に売り飛ばされて虐待に遭ったことで、凶暴でどうしようもない「けんかオオカミ」となるが、サンフランシスコからやってきた優しく勇敢な青年に助けられ、彼から初めて人間の愛を学んだことで、最終的に番犬として大手柄を挙げて大団円、という物語である。
ホワイト・ファングのオオカミ流のシンプルな思考を通じて見る人間社会の描写には今でも新鮮な部分があるし、ホワイト・ファングが「狩るもの」として野生の本能を存分に発揮し、たくましい身体を自在に躍動させるさまは爽快である。
生命は生命に負わされている務めを最高度にはたしたとき、その頂点に達するものだからだ。(第2章 世界の壁)
ホワイト・ファングが見ている世界は、非常にわかりやすい階級でできている。彼自身を含む犬たちの上に「神」として絶大な力を持った人間がおり、神の中にもインディアンがいて、その上に悪い白人がいて、さらに頂点に善い白人がいる。きっとこの単純明快な構造と勧善懲悪が、大衆雑誌が急成長した時代に、この作品を人気にしたのだろうと思う。
作品が書かれた頃のアメリカではこれが普通の価値観だったのはわかっているし、それを上下関係を重視するオオカミの目を通して描けば必然的にこうなるだろうなとも思う。私は、過去のものを現在のいわゆるポリコレで裁くのはフェアではないと思っている。それでも「そうですか、都合の良い世界観ですね」という感想からはどうしても逃れられなかった。
それはおそらく、私自身が今、非白人として白人の国に暮らしていて、そういう部分に敏感になっているからだろうと思う*2。博物館のジャック・ロンドン展でも、彼がどういうスタンスで南の島の人々を見ていたのかずっと考えていた。写真の中では、彼や彼の妻が現地の島の王族たちと共に写っており、おそらく重要な客人としてもてなされていたのだろうと思われる。既に島に拠点を築いている白人の商業関係者と一緒に写っている写真も多かった。そうしてあくまで「価値の高い人間」として、現地の人からある程度距離を置いてリゾート的に楽しんでいたのかなと思える部分もあった一方で、前述のように現地の文化であるサーフィン*3を教わるような場面もあり、結局私にはよくわからなかった。わからないまま、ジャックが島の人々を撮った写真を白人たちに混じって眺めながら*4、ここにいる他のみんなはカメラを覗く側だが、私だけは被写体にもなりうる、というなんともいえないかすかな落ち着かなさを感じていた。
日本人に関しては、ハワイ以降のスナーク号のクルーの中に Nakata Yoshimatsu という日本人がおり、ロンドン夫妻と良い関係にあったようだ。彼は冒険の旅の後もジャック・ロンドンのもとで働いて、その後ハワイで歯科医になったらしい。そんなエピソードもありながら、ジャック・ロンドンは当時欧米諸国で広まっていた黄色人種脅威論に同調した作品も書いている。
「人種が」「国家が」と大きな主語で語る内容と、個人的な付き合いとが矛盾することは、人間なのだしよくあることだろう。ましてや100年前のことなので、そういうことに対する意識も薄かっただろうし、あまり深く考えずに「善きアメリカ人」として生きるとこんな感じになるのかもしれない。
同じ展示を渡仏する前に日本で見たとしたら、私はたぶん、無意識に自分をカメラを覗く側と思っていたのではないかと思う。南洋の島々は、欧米から遠いのと同じように、日本からも遠い。見知らぬ、欧米式の”近代化”がなされていない文化に対して、現代日本に生まれ育った人が持つ視線は、ジャック・ロンドンのとそんなには変わらないだろう。カメラから覗くその眼差しが、正しいとか間違っているとか言うつもりはない。全然まとまらないのだが、ひとつ言えるのは、自分をカメラの向こう側に見たときのあの言葉にしづらい落ち着かなさの経験が、少し、しかし不可逆的に、私の何かを変えただろうということだ。

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