「銀河鉄道の夜」とブルカニロ博士

けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう

Oui, mais qu'est-ce donc que le vrai bonheur?

 

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は、フランスでも訳されていて、ペーパーバックで手に入れることができる。訳者によっていくつか違うものがあるようだが、私がボルドーの本屋で見つけたのは、Hélène Morita 訳の Train de nuit dans la Voie lactée である。

 

フランス語訳「銀河鉄道の夜」

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この本には、「セロ弾きのゴーシュ」と「風の又三郎」も一緒に収録されている。フランス語で Gauche は左右の左を表す単語なので、うっかり自動翻訳にかけると「チェリストの左」になってしまい、インド人を右にみたいで不覚にもくすっとしてしまった。ただしこれについては巻末の註で、カタカナの音をフランス語で綴りなおすにあたってこうなったということが書かれており、またもしかしたら賢治がフランス語の意味を知っていたのかもしれないとも付け加えられている。確かに、フランス語の gauche には「左」だけでなく、「不器用な、ぎこちない」という意味もあり、この物語のゴーシュのキャラクターにぴったりはまるネーミングである。

この巻末註は「銀河鉄道の夜」でもなかなか充実しており、小泉八雲を引いて七夕について紹介したり、ジョバンニとカムパネルラの名前の由来についての説や、”らっこの上着”についてイタリアのデ・アミーチス著「クオレ」との類似性を示したりなど、私も知らなかった情報がたくさん書かれている。

 

さて、フランスに来てはじめの頃にこの本を見つけ衝動買いしたのだが、先日クリスマスプレゼントとしてフランス人の友人にも同じ本を贈った。賢治独特の造語や言葉選びのニュアンスがどれだけフランス語に受け継がれているのか、正直私のフランス語力では全くわからないし、世界観はきっと気に入ってもらえるだろうと期待しつつ、ほとんど自己満足の布教みたいなものだ。それくらい「銀河鉄道の夜」は好きな作品である。

そして、人に読ませようとしているのだから自分でも読み返そうと思い、青空文庫で久々に「銀河鉄道の夜」を読んだ。

 

角川文庫版

 

新潮文庫版

 

上に2つリンクを貼ったように、青空文庫には角川文庫版と新潮文庫版の2種類が収録されており、内容に相違がある。

「銀河鉄道の夜」は賢治が晩年まで手を入れ続けた未完の作品であり、原稿用紙ごと抜けている部分があるほか、遺された原稿も第1〜4次稿までバージョン違いが存在する。今いちばん読まれているのは第4次稿だが、出版社や版によっては、第4次稿と第3次稿をミックスしたものもあるようだ。

私が今回青空文庫で読んだのは角川文庫版で、これがたまたまこのミックスタイプであった。

「銀河鉄道の夜」比較

第3次稿まで(初期稿)と第4次稿(最終稿)で最も異なる点が、「ブルカニロ博士」の存在である。

第3次稿までは、銀河の旅のところどころで「やさしいセロのような」不思議な声がジョバンニとカムパネルラに語りかけ、南十字の先の石炭袋でカムパネルラが消えたその席に、その声の主が「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせた大人」として現れる。これがブルカニロ博士で、ジョバンニが現実世界の丘の上に戻ってきたとき、この銀河鉄道の旅が自分の「遠くから私の考えを人に伝える実験」であったのだと明かす。

実は私は最終形の「銀河鉄道の夜」しか知らなかったので、今回この角川文庫版で、折々の「不思議な声」はこんなのあったっけ?と思う程度で読み進めていたが、ラスト付近でカムパネルラと入れ替わりで知らない人物が登場し、しかもその人がかなり重要なことを長々と語るに至って、やっとバージョン違いと気付いてびっくりした。(ちなみにフランス語訳版は、最終稿のブルカニロ博士が出てこないものである。)

個人的には、ブルカニロ博士の語りはやや冗長であるように思うし、何よりあの美しい旅が誰かに仕組まれた「実験」だったというのには、なんだか騙されたような気がして反発を抱くので、最終稿の方がずっと好みである。また、博士が登場しないことによってジョバンニの旅に導き手が存在しなくなったことも、この物語を強くしている要素のひとつであるように感じる。なので、博士のシーンを全て削った賢治の判断はすばらしいと思うのだが、一方でブルカニロ博士の語りは、作品に込められた思想を理解するには大きな助けになる。

 

「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです」

「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。(中略)だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」

 

現実世界で、ジョバンニは家庭の事情という子供にとっては理不尽な理由で孤独に苦しんでいる。最後の頼みである幼馴染のカムパネルラとも最近距離が開き、星祭りにも置いていかれてしまう。なので銀河鉄道の旅の間、ジョバンニはカムパネルラに執着するあまり、親しげに話しかけてくるうさんくさい鳥捕りや、沈没船の女の子を邪魔に思い、そのたびに自己嫌悪に苛まれる。(このダークな気持ちは、私も友達の少ない子供だったのでとても共感する。)そんなに大好きなカムパネルラも、最後にはいなくなってしまう。「どこまでもいっしょに行こう」と言った次の瞬間に。

しかし、カムパネルラがもう銀河の彼方にしかいないとわかっても、旅を終えたジョバンニは大丈夫なのだ。「あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」という大きな決心が彼を変えたからだ。

「永訣の朝」で有名な妹の死によって、賢治はきっと「最後には誰とも一緒には行けない」と強く感じたのではないかと想像する。この詩の中でも、ただ一行だけローマ字になっている死にゆく妹の言葉に、その孤独と向き合う悲壮な決意(妹の、そしてたぶん賢治のものでもある)が表れていると思う。

 

Ora Orade Shitori egumo

 

人生の旅は、結局たったひとりで行くしかない。しかし、「みんなのほんとうのさいわい」を求めて進むことで、ただそうすることのみによって、ひとりだけれど、ひとりではなくなる。そのことがひとりの旅路を支えてくれる。

非常に宗教的だ。「銀河鉄道の夜」にはたくさんのキリスト教的モチーフが散りばめられているし、賢治自身が極めて熱心な法華経信者だったこともよく知られている。ただ私には、賢治が既存の宗教を飛び越えた究極的な何かを目指していたように感じられる。

「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニは沈没船の女の子と、「あなたの神様なんかうその神様だ」という、議論にならない議論をする。ジョバンニの言いたいことは、女の子にも、その家庭教師の青年にもついぞ伝わらず、クリスチャンである彼らは南十字星で列車を降りる。ブルカニロ博士のセリフにも、「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう」というのが出てくる。そしてそれはこう続く。「けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。」正しさも善悪も、皆が事実と信じている地理や歴史でさえも、その人その人や時代によって変わっていく流動的なものだ。それでも、人間のおおもとを貫く「ほんとうのさいわい」があるのだと賢治は信じていたのだろうと思う。ジョバンニは、南十字星で列車を降りず、その「どこまででも行ける切符」でさらに先を目指す。

天気輪の丘に戻った後も、ブルカニロ博士は改めてジョバンニにその不思議な切符を渡して言う。

 

さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしにほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない

 

ポケットの中に、私はまだその切符を見つけられるだろうか。

 

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