とある中学生がたった一人で、ヒッチハイクでアメリカ大陸を横断しようとしているらしい。そういう冒険が悪いと言うつもりはないし、私の人生ではないのでやりたいことやればいいのだが、せめて義務教育は修了して、自分の行動の責任を持てるようになってからだよなあと思う。
で、彼が言うには、「たくさんの人に勇気や夢を与えたい!」のだそうだ。
どうしてヒッチハイクでアメリカ横断することが「勇気や夢を与える」ことになるのかいまいちピンとこないし、それよりも「オレがやりたいからやる」の方が断然カッコいいと思うんだけどなぁとか、まあ思うことはいろいろあるのだが、その内容は置いておくとして、この「勇気や夢を与える」という言い回しが、私は大嫌いである。
誰が言い出したのか知らないが、いつの頃からか、特にスポーツ選手がこぞって「夢を与えられるようなプレーをしたい」「希望を与えられるような選手になりたい」とインタビューで語るようになった*1。どんなに立派だったり好きだったりする選手でも、これを言われるとげんなりする。語られている志を否定する気は毛頭ない。私が嫌いなのは、「与える」という言葉選びだ。
「与える」という言葉には、立場が上の者が下の者に何かを渡すという、はっきりした上下関係がある。「先生が生徒に課題を与える」とか、「飼い主がペットに餌を与える」とかいうふうに。相手と対等だったり、自分のほうが下だったりする場合には、普通「与える」は使わない。「恋人にバレンタインチョコを与える」とか、「上司にお土産を与える」なんて言い方をされた日には、なんだか歪んだ関係性を嗅ぎ取って心配になってしまうだろう。「与える」を使う例として飼い主→ペットを挙げたが、これでさえ「餌を”あげる”」のほうがしっくりくる人も多いのではないだろうか。それくらい強く上下関係を意識させる動詞なのである。
「〇〇選手の演技が観客に夢や希望を与えた」というように、選手本人以外が言うのはなんの問題もない。観客側が「夢を与えられた」と言うのも、日本語としてちょっと不自然だがまだ許容範囲だ。しかし選手本人が「みなさんに夢を与えたい」と言ってしまうと、自分自身を「みなさん」より上に置いていることになり、たとえその人がスーパースターで実際に”上”なのだとしても、相当感じの悪い表現に聞こえる。たいていは言っている本人にそんなつもりがないのも十分わかるのだが、それはそれで「言葉の使い方が残念な人なんだな…」という印象になってしまう。
「見ている人に勇気を持ってもらえるようなプレー」とか、「みなさんに夢を届けられるような選手」とか、「与える」の代わりに使える上下関係ニュートラルな表現だっていろいろある。夢・希望・勇気といったもの以外でこの「〇〇を与えたい」という言い方はほぼ見ないので、たぶんほとんど定型句のようになってしまっているのだと思うが、誰かそれこそスーパースターのような影響力のある人に、なんとかこの流れを止めてもらえないかと願うばかりである。
*1:逆に言えば、それ以前はこの言い回しはほとんどなかったように思う